“ぬけぬけ病”の正体 ― 走りを『直そう』とするほど、なぜ抜けるのか
ランナーズジストニアを、脳と脊髄の“自動運転”から考える。カギは「意識をどこに置くか」。
無料パートの音声です。続きは OptiRun BASE の科学コラムで。
「急に脚の力が"抜ける"。地面を蹴れない。練習では出ないのに、レースや大事な場面で出る」── 駅伝・長距離の現場で、ときどきささやかれる"ぬけぬけ病"。気合いでも根性でもどうにもならない。今日はこの厄介な現象を、"脳と脊髄の自動運転"という角度から一緒に考えてみます。
まず正体から ― これは「気のせい」でも「メンタルの弱さ」でもない
"ぬけぬけ病"は俗称です。医学的な実体は ランナーズジストニア(runner's dystonia) ── 走っているときだけに出る、下肢の課題特異的な局所ジストニアと考えられています。ポイントは、安静時の神経の診察はほとんど正常なこと。歩くのは普通、立つのも普通。でも"走る"という特定の課題になると、足首や下腿が勝手にねじれたり、力が抜けたりする(Wu & Jankovic 2006; Lenka & Jankovic 2021)。
だからこそ厄介です。じっとしていれば異常が出ないので、「気のせい」「メンタル」と片付けられやすい。現場でも、元五輪ハードラーの苅部俊二さんが"ぬけぬけ病"を「足が抜けて力が入らない、地面をけれない」状態と紹介し、駒澤大学の工藤有生選手が箱根駅伝7区で発症した例に触れています(苅部俊二「vol.95 ぬけぬけ病」)。近年は神野大地選手が、ジストニアの手術を公表して話題になりました(報道ベース)。
言葉だけではイメージしづらいので、実際の症例映像を1つ。走っているときにだけ現れる下肢の不随意な動きが記録されています(Justine Galloway 氏 ― ランナーズジストニアを公表しているランナー)。
「整形外科の病気」と誤診され、何年もさまよう
この病気の一番の悲劇は、正しくたどり着くまでが長いことです。メイヨー・クリニックの症例集では、ランナーの正診まで中央値で3.5年。しかもその間に、3分の1を超える人が、効果のない侵襲的な処置(手術など)を受けていたと報告されています(Cutsforth-Gregory et al. 2016)。安静時に異常が出ない以上、「腱の問題」「関節の問題」と誤解され続けるのです。
もうひとつ、決定的に大事なことがあります。"見えている場所"と"本当の原因"がズレる。大阪大学のグループが解析したエリート女子ランナーの症例では、右足が振り出しのときに反対の脚とぶつかり、一見「足首の局所ジストニア」に見えました。ところが3D動作解析と筋電図で分解すると、真犯人は足首ではなく、股関節・骨盤の制御障害。足首の動きは、ぶつかるのを避けるための"代償(避け動作)"にすぎませんでした(Ogasawara, Hattori et al. 2021)。
つまり、足首を一生懸命ケアしても、原因が股関節なら永遠に治らない。原因部位を動作学で見極めることが、出発点になります。
なぜ"走り"だけが壊れるのか ― CPGと「自動運転」の話
ここで少し、脳と脊髄の仕組みに寄り道します。
私たちの歩行や走行のリズムは、脳がいちいち「右、左、右…」と指示して作っているわけではありません。脊髄には、歩くリズムと筋肉の順番を自動で生み出す回路 ── CPG(central pattern generator=中枢パターン発生器) があります。動物では、脳から切り離した脊髄だけでも歩くリズムが出ることがわかっています。ヒトでも、脊髄損傷者の腰髄を電気刺激すると、脳の指令なしに脚がリズミカルに動く(Minassian et al. 2017; MacKay-Lyons 2002)。
イメージは、脊髄が"自動演奏機"、脳が"指揮者"。神経生理学者の高草木薫さんは、歩行では基底核・小脳・脳幹が「意識的な気づきなしに、筋緊張とリズミカルな四肢運動を自動調節する」とまとめています。指揮者(大脳皮質)が乗り出すのは、障害物をまたぐような"状況が変わったとき"だけ。平地を走っているときは、ほぼ自動運転なのです(Takakusaki 2013)。
では、ジストニアはこの自動運転に何が起きた状態か。これは"配線1本の断線"ではなく、基底核・視床・皮質のループに、小脳や感覚野まで巻き込んだ"ネットワークの不調"と考えられています。反復した動きを"使い込みすぎた"結果、運動と感覚の地図が過剰に上書きされ(maladaptive plasticity)、隣の筋肉まで一緒に動いたり固まったりする ── 音楽家の局所ジストニアで言う「熟練の呪い」です(Furuya & Hanakawa 2016; Altenmüller & Jabusch 2010)。
同じ仲間が、ゴルフの"イップス"。手首が勝手にねじれるあれも、課題特異的ジストニアの一種とされます(Adler et al. 2011)。そして象徴的なのが、「練習ラウンドでは出ないのに、本番のパットで出る」という報告(van Wensen & van de Warrenburg 2018)。ランナーズジストニアが「大事な場面で出る」のと、驚くほど似ています。
そして ── ここからが本題です。実は、多くのランナーが良かれと思ってやっている"ある習慣"が、この自動運転を静かにかき乱している可能性があります。ジョグ中、街の窓ガラスに映る自分のフォームを、つい見てしまう。あれです。なぜそれが危ないのか。そして"直そうとするほど抜ける"のはなぜか。ここから、注意の科学と、筆者自身の臨床経験、そして「後ろ向きに歩くと治る」という不思議な手がかりまで、順に解いていきます。
ここが核心 ― 「直そう」と意識するほど、抜ける
自動運転でうまく回っている運動に、指揮者(意識)が過剰に手を出すと、かえって崩れる。これは運動科学でよく知られた現象で、"注意の焦点(attentional focus)"の研究がまさにそれを示しています。